軽便鉄道(けいべんてつどう)
今をさかのぼること約81年前の1917年4月(大正6年)に、この櫛形地区に鉄道が走り出したことを皆さんはご存じですか。
正式な名称は「安濃鉄道」といい、我々庶民には「軽便(けいべん)」の名で親しまれた鉄道です。この安濃鉄道は、津とその西部の農村を結ぶ鉄道で、河芸郡椋本村の林(現在の芸濃町林)の林宗右衛門・原重次郎ら郡内の有志が中心となり、1914年12月(大正3年)、津新町八町(現在の津市八町二丁目)〜椋本(現在の芸濃町椋本)間が開通し、翌年には、林(芸濃町林)までの約14キロを1時間半で結んだのがその始まりです。その3年後には、この櫛形地区にも鉄道が開通しました。 |
<軽便の路線> その路線は、安東駅(現在の安東町中跡部)から分岐して片田村の片田駅まで。櫛形村を経する線が開通するにあたり、途中、跡部(あとべ)駅、分部(わけべ)駅、及び産品(うぶしな)駅が設けられました。
櫛形地区における路線は、跡部より安濃川を渡り(現在の向井橋の南側付近)、向井・分部地区の田園地帯を縦断し、分部地下(じげ)の穴倉川の地下橋を渡り、分部集落の東端に沿い、現在の津市櫛形支所東付近を通過し、小学校西側農道を沿い、殿広池西端から産品集落の西端の置染神社西付近を回り、片田の田中へ抜けるル−トでした。 |
<軽便エピソード1>
駅は、分部(現在の分部東端から、小舟へ行く道路角付近)と、産品(現在の忠盛塚西付近)にそれぞれ設けられました。駅舎といっても、現在見かける駅のイメ−ジにはほど遠く、現在のバス停待合室を少し大きくしたぐらいで、駅名は右より左に書かれていたようです。もちろん、軌道には柵などはなく、軽便が来ない時、子どもたちが分部の地下鉄橋を渡って遊んだり、手を挙げて合図し軽便を止めて、途中から乗車したという現在の鉄道では想像もできないエピソ−ドもあります。
<軽便エピソード2>
この軽便は、津市新町より2両連結で運転され、安東駅から分離して、櫛形地区では1両で運転されていたようです。
線路の幅は約76cm、機関車は蒸気とガソリン車で、速度も時速10km程度で今の自転車と同じぐらいの遅いスピ−ドで、なおかつ、多く乗車すると機関車自体に馬力がないため、坂では乗客が降りて後ろから押していたりしていたという話もあり、たいへんおおらかでのんびりした当時の生活の一端もうかがえます。
<軽便エピソード3>
その一方、運賃は津市新町〜片田間が13銭(現在の1000円程度)と高かったため、あまり利用されていなかったらしく、今から思うと残念なことに、1927年4月(昭和2年)に同線は廃止されてしまい、櫛形の鉄道の歴史は11年という短命でその幕を閉じました。そして、太平洋戦争が激しくなった1944年(昭和19年)には、戦争に使うためレ−ルを供出し、ついに安濃鉄道全線の歴史に終止符が打たれました。